ある美術展の帰りに、映画 「FAKE](森達也監督作品)を観ることにしました。この上半期、最も注目されている映画の一つです。
館内は満席に近い状態でした。年配のおじさんから若い女性まで客層はさまざまです。
平日の午後にしては良く入っている印象でした。
この映画館で公開されてから約1か月経っていますが、人気はどこから来るのでしょう。
※東京では6月4日公開以来、まだ上映が続いており異例のロングランに入りました。また、大阪、京都、神戸など関西圏でも、再上映が決まるなど人気は衰えていません。近年にない人気のドキュメンタリー映画と言えるでしょう。
新垣隆氏の謝罪の告白会見から2年半、あまりにも明暗の分かれた両者を区別するものは何だったのでしょうか?
新垣氏自身が共犯者だと述べているように、両者は18年間もの間、共謀して作品を世に出していました。依頼する側も、受ける側も同罪です。仕事の対価も払われていました。
俗にいう 「ゴーストライター」 ですが、こんなものは珍しくありません。書籍の世界では、矢沢永吉もホリエモンも 「ゴースト」 に書かせていました。松本伊代は、自分で書いた本を読んだこともありませんでした。音楽家もデザイナーも、弟子が作った作品を平気で世に出しています。
それなのに今回、佐村河内守氏が世間からバッシングを受けた理由は二つ考えられます。
一つは、佐村河内氏が 「現代のベートーヴェン」 と言われ、あまりにも脚光を浴びたからです。 世間を欺いた彼はとんでもない 「ペテン師」 だと言われました。
今一つは、 「耳が聞こえる」 のに 「全聾」 であると偽っていたことです。
メディアがブームを創出し、大衆が騒ぎ、CDが売れ、全国でコンサートが開かれました。気が付いたら佐村河内氏はスターダムに、新垣氏は影の存在のまま・・・
新垣氏の突然の告白によって事件が明るみに出ると、今度はすさまじいバッシングの嵐が彼を襲いました。TV局が佐村河内氏の記者会見を中継して、さらに視聴率が上がりました。
その記者会見で最大の争点が、「難聴は本当か?」 という疑問でした。実は、普通に聞こえているのではないか、と言う疑いです。そう思わせる場面もあったからです。
しかし、今回の映画で、彼の「難聴」(感音性難聴)は間違いないと確信できました。さらに、被爆二世であることも証明されました。
この映画が言いたいことは、事件の真相です。メディアが社会現象をけん引する怖さです。そして、TVに依存する社会です。主体性の欠如した国民性です。
加害者と被害者、善人と悪人、ペテン師と天才 という二極分化の社会の危険性です。
社会から抹殺され、ひっそり暮らす一人の人間を通して描かれる 「バッシング社会」、「迎合社会」 に対する叫びとならない「怒り」 が、やはりテーマになっていると感じました。
ラスト12分は、森達也監督の賭けだったかも知れませんが、かなり核心部分で良くできています。
ただ、佐村河内氏の才能は感じますが、やはり新垣氏あっての作品だったと思います。構成力やイメージは非常にクリエイティブで非凡ですが、一人では完成出来なかったでしょう。
初めから共作として発表すれば、互いを補完しあって、さらなる秀逸な作品が生まれていたはずで本当に残念です。ラスト12分で強く感じました。
この映画の公開直後から、森監督と、ノンフィクション作家の神山典士氏や、新垣氏の所属事務所の間で意見の相違があるようですが、音楽ファンから見れば悲しくなります。
今後、新垣氏はクラシック作曲家として名声を確立すると同時に、タレントとしても益々活躍すると思います。 もちろん本人の並外れた音楽的才能と、人柄が評価されているからに他なりません。
しかし、影の存在だった彼を表舞台に引きずり出したのは、皮肉にも佐村河内氏の存在でした。 明暗が入れ替わったに過ぎませんが、佐村河内氏の今の境遇は、新垣氏に比してあまりに不当と言わざるを得ません。
「不信」 が蔓延する社会に生きる現代人に、この作品は 「信じること」 の難しさを問いながら、弱者や少数意見に耳を傾ける社会の在り方を模索しているのです。
偽り 「FAKE」 の世界にどっぷり浸かっているのは、本当は私たちなのではないでしょうか・・・