金華安宅車の歴史
もっと安宅車を知ろう ─数奇の運命をたどった安宅車─
江戸時代、まつりの山車文化は各地に広がりました。贅(ぜい)を尽くし、豪華な山車が競うようにして作られ、町人たちはわが町の豊かさを誇ったのです。県下でも高山市を始め、大垣市、羽島市、関市、美濃市などに文化的価値の高い山車が現存しています。
この地方では、安政の大地震(1855)で多くの山車が大破したとされるものの、修復を繰り返し、明治23年(1890)の記録によると、伊奈波神社の祭礼に14台が奉納されたとあります。その当時、水運で栄えた元浜町、玉井町、湊町は町内ごとに山車を所有していました。安宅車もかつては本町5丁目が所有していました。その他、加納天満宮の祭礼では9台の山車が出ていたと言われています。
しかし、明治24年(1891)の濃尾大震災で、当時20数輌といわれた岐阜市の町内所有の山車はことごとく焼失しました。安宅車はかろうじて焼失を免れました。その後、昭和19年(1944)、太平洋戦争末期の家屋強制疎開(撤去)によって、山車の格納庫を失い野ざらしの状態が続きました。終戦後、仮格納庫を急造して保存にあたりましたが、台風などの災害で再び破損の憂き目に遭いました。
昭和33年(1958)1月、岐阜市文化財民俗資料第1号(岐阜市重要有形民俗文化財)として、安宅車とからくり人形3体が指定されるに及んで、ようやく山車修復と格納庫建設の気運が高まり、住民の念願も通じて、昭和37年(1962)に安宅車の修復が完了し、格納庫も建造されました。そして昭和42年(1967)伊奈波神社の所蔵となりました。その後、昭和60年から1年がかりで高山の宮大工 八野忠次郎氏が、傷みのはげしい屋根や高欄(こうらん)、彫刻、台輪などを補修しました。まさに安宅車は数奇の運命をたどり伊奈波神社の社宝となり今日に至っています。
安宅車の建造年は諸説あり、天保5年(1834)とも弘化元年(1844)ともいわれています。建造様式は江戸幕府の初期から後期に至る三様式を全て備えています。形は名古屋型で、全長5メートル35センチ、全高4メートル50センチ、四輪・外輪で「前柵」があり、後方の人形飾りの台に4本の細い柱で日除けの大唐破風屋根を持ち、輪覆いの塗りを含め、山車全体の漆塗りや飾り金具、それに素木の彫り物、彩色幕などが特長です。山車を飾る彫刻は、嘉永年間(1848-1854)に諏訪の名工といわれた立川和四郎富昌の作品と伝えられています。前方には采振り人形が設置され、幕で覆われた下層には、囃子方用の畳敷きのスペースがあります。ちなみにお囃子は、能楽師の後藤孝一郎氏が、昭和30年代に古書や伝承をもとに復元したもので、本格的な「笛、小鼓、太鼓」による生演奏が往時を偲ばせています。
からくりは、歌舞伎十八番でお馴染みの勧進帳を能狂言に仕立てた「安宅の関」の一幕で、ここの主役は武蔵坊弁慶、後ろに座る武士は源義経で、お囃子と謡(うたい)の生演奏によって人形の妙技を堪能することができます。このからくりは、明治21年(1888)の大改修の際に安宅車に設置されたもので、安宅車の名前の由来はこの時にさかのぼります。尚、本年(2018)は安宅車が「からくり山車」に生まれ変わってちょうど130年目に当たります。
江戸時代から今日まで、時代の荒波を越え風雪に耐えて、安宅車は、祭りを支える多くの町民の心意気と金華の誇りを乗せて奉曵されてきました。今回の行事を通し、格式高い伝統芸能が未来に受け継がれていくことを確信し、金華と安宅車の輝かしい発展を祈るものです。
金華自治会連合会 第13・14地区安宅車奉曵実行委員会 R・KATO記
以上、平成30年 奉曵ガイドブック記載文より
参考資料
金華史誌、ぎふ街通信、岐阜日日新聞(1985・5・3)記事、平成29年度安宅車奉曵小冊子ほか
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