戦後70年慰霊の旅 その参 沈黙を破る手紙
少し前の話しですが、この10月7日、京都舞鶴市の 「舞鶴引揚げ記念館」 に行って来ました。 (重い記事ゆえにアップが遅くなりました。)
10月7日は、70年前の昭和20年に、初めての引揚げ船 「雲仙丸」 が舞鶴港に入港した日です。
この日から、昭和33年9月まで13年間に渡り、延べ426隻の引揚げ船が舞鶴港に入港し、664,531人の引揚者が故郷日本に帰って来ました。 (うち、ご遺骨は16,269柱とされる)
しかし、穏やかに晴れ渡る舞鶴港や整備された記念公園からは、当時の悲劇は想像出来ませんでした。
そもそも、舞鶴を訪ねて見たくなったきっかけは、あるテレビ番組でした。
ETV特集 「沈黙を破る手紙~戦後70年目のシベリア抑留~」 (NHK Eテレ 2015・9・5放送)は、旧ソ連の国営ラジオ放送を偶然にも受信した、大阪在住の坂井仁一郎氏が、抑留者の安否情報を、留守家族にハガキで伝えたという番組でした。
当時、多くの留守家族は、何の情報もなく、只々帰りを待つだけで途方に暮れる毎日でしたが、一人の民間人だった坂井氏のハガキが、大きな光明をもたらし、生きる希望につながったのです。
番組サイト 動画サイト→http://www.dailymotion.com/video/x352nv8 (リンク切れご容赦ください)
この記念館には、その当時の手紙が展示してあり、生々しい状況がくみ取れます。
■ 留守家族から坂井氏に届いた 「お礼の手紙」 の一部(修正済)をご紹介します。(生死不明だったご主人は、坂井氏のハガキ通りに無事帰国を果たします。)
お手紙、喜び拝見致しました。
三人の子どもを亡くし、財産を失い、主人は生死不明、一人淋しい淋しい、どん底生活の中に、貴方様からの暖いお便り、どんなに喜こんだ事か、御想像下さい。(中略)死を超へた収容生活、もう何をしても苦しくないと言って居ります。主人と共々、厚く厚くお礼申し上げます。 かしこ
このほど(平成27年10月9日)、「シベリア抑留に関する資料」 が、ユネスコの世界記憶遺産に登録され、想像を絶するシベリア抑留の資料が再認識されることは、大変意義深いことです。
日本では、戦争を知らない世代が8割を超えました。二度と戦争の惨禍を繰り返さないためにも、私たちは進んで過去を学び、犠牲者を追悼しなければなりません。
戦後70年慰霊の旅は、来年も続きます。
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