いとしき蜃気楼 さくらと重ねた死生観
今年の桜も見納めです。花びらが散り始めました・・・
ある公園で、池に散る花びらの風情を写真に収めました。
そんな時、詩人 茨木のり子氏の「さくら」という詩に出会いました。
「さ く ら 」
茨木のり子詩集『おんなのことば』より
ことしも生きて
さくらを見ています
ひとは生涯に
何回ぐらいさくらをみるのかしら
ものごころつくのが十歳ぐらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう
もっともっと多く見るような気がするのは
祖先の視覚も
まぎれこみ重なりあい霞(かすみ)立つせいでしょう
あでやかとも妖しとも不気味とも
捉えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と
生きてさくらが見れる幸せ。
人は、歳を取るとあと何年さくらが見れるだろうか? と、死が近づきつつあることを予感します。
しかし、さくら吹雪の中で、作者は、ふと悟ります。人の一生も、さくらの花のようにはかないものではあるが、この世に生を享ける前から私たちは存在していてさくらの花を見ていたのではないか。
そして、死んだあとも存在し、また生を享けて、さくらに出会うのではないか。
死を恐れることはない、死こそが常態であり、生は一瞬の蜃気楼のようなものだ。しかし、生があまりに短いのでいとおしく感じられる、と。
さくらの花は一週間の生命ですが、さくらの樹木は死んでいません。同じように、人の一生も、はかなく見えますが、生命は生き続けています。
そして時期が来ればまた花を咲かせます。花が咲く一週間は、いとしき蜃気楼のようですが、そうでない時の方が常態で、圧倒的に長いのです。
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